2016年1月。
体調が悪くなった父は、深夜に救急搬送で病院へ。
2016年1月31日。昼過ぎごろの父が入院する病室
それは父が入院してから1週間目の出来事でした。
点滴は細くなってしまった腕からそそがれ続け、父と会話できる時間も短くなっていました。
命のタイムリミットは迫っていました・・・
父は緩和ケアという治療法により1日のほとんどを眠って過ごしていました。
「もう目を覚まさないかもしれない・・・」
そんな不安がありましたが、この日の父は違いました。
看護師さんが声をかけると深い眠りにあったはずの父の目にはゆっくりと光が蘇ってきました。
父は末期のガンでした・・・
ガンは臓器の奥深くにまで広がり自力で起きることはできず、言葉を話すことも難しい状態となっていたのです。
そんな父が身体を起こそうと、
ゆっくり伸ばした右手がベッドの手すりをつかみます。
弱々しく見えたその手からは、
この日のための特別な思いが感じられました。
病室には母と両親の友人もいました。
看護師さんが父を抱き起こし、母は右側から支えます。
この日は母にとっても大切な日であり服装も普段と違いました。
この日は46歳を迎えていたひとり息子の、大切なゲストを迎える日でした。
息子が交際していた彼女の家族と初めて会うことになっていたのです。
首に巻いたのは、父のお気に入りのスカーフ。
以前に母からプレゼントされたものだそうです。
車椅子に座ってジャケットに袖を通します。
しかし点滴の管で思うように着こなせず、肩に羽織ることにしました。
看護師さんたちの手際のよさにはただ驚くばかり。
つい先ほどまで深い眠りにあった状態から・・・
すっかりなじみのある“父の顔”になっていました。
車椅子に座っていても意識を保つだけで辛いはず・・・
父は目覚めていてもせいぜい10分ぐらい、長くても20分ほどがやっとでした。
この日から9日前の1月22日の深夜。
父が夜中に体調の不調を訴え、救急搬送されてそのまま入院に。
翌日の昼ごろボクと母は父の担当医から呼ばれ、父の病室とは違う場所で説明を受けました。
そこには臓器が映し出された写真があり、説明する医師の表情は厳しい表情でした。
「お父さんの命はよくもって3週間です・・・」
「さ、3週間・・・・・・」耳を疑いました。
父は元々前立腺ガンを患っていました。
年齢的なこともあり、薬で進行を抑える治療方針が取られていました。
薬によってガンの進行は抑えられていたものの、徐々に治療の副作用による強い便秘症状が現れ、
痛みとは別に苦しむことになりました。
そのため便秘改善の治療を受けるも、効果は期待できず便秘はひどくなる一方。
そして一時的に抗ガン薬治療を中止せざるを得ない状態に・・・
しかしそのわずかな間にガンは肝臓に広く転移してしまいました。
“沈黙の臓器”とも言われる肝臓への転移は自覚症状はなく、腹部には強い便秘の症状が続いていため、違和感があったとしてもすぐに発見することが難しいケースだったと思います。
まずは便秘の改善をしてから前立腺ガンの治療を根気よく続けつつ、
父は命のある限り人生においてやり残したことを完了させ、どんな状態でも謳歌して生きると決めていました。
医師は緩和ケアとホスピスを勧めました。
ガンを治すことが目的ではなく、なるべく苦しみや痛みを和らげることが目的の治療です。
「私からお父さんに告げておきます」医師は言いました。
「今はちょっと待ってください、ボクから伝えます・・・」
絞り出すようにしてやっと声にすることができた。
医師は「・・・わかりました。もし、伝えるのが苦しいようでしたら私から告げますからね」
気持ちを軽くしてくれるよう医師は柔和な表情でした。
医師から説明を聞き終え席を立った時、母は立ち眩みをおこしその場に崩れました。
母の背中に手を添え「大丈夫?」
「ちょっと立ち眩みした・・・大丈夫・・・」
母の顔は青ざめていました。
フロア内にある休憩所の椅子に座り、2人ともしばらく無言状態。
しかし思っていたことは同じでした。
今病室へ戻って父に3週間の余命など伝えられない・・・
ここまで家族で培ってきたものが一瞬にして壊れてしまうのではないか。
突如目前に迫った死を前に父は、現実を受け入れる間もなく
肉体より先に精神が死に絶えるのではないか・・・
例え告げたとしてボクや母はどう父に接すればいいだろう・・・
葛藤・・・
どれが正解という単純な問題ではありませんでした。
父も覚悟はあったはずだろう。今までもいくつもの大病と向き合ってきました。
そのたびに父は思い残しなく、その思いを少しづつ叶えていくことが、父の意欲の支えとなって病気と闘い、生きるための励みでありました。
そして何より父にはまだ大切なやり残しがありました。
「タイミングを見てボクから伝える」
ボクは母へ伝えました。
病室へ戻ると父は「先生なんて言ってた?」
穏やかな表情でした。
ボクはもっともらしいことをいって話をはぐらかしました。
父は一瞬けげんな表情になるものの、ボクのことを信じてくれたように思いました。
母は自宅へ父の必要なものを取りに帰り、
ボクは父が入院する病棟から10分ぐらいの場所にあるホスピス病棟の見学へ向かいました。
ホスピスへ向かう途中、ボクは父の大きな“やり残し”のことを思い出していました。
父にとっての大切なやり残し・・・
それは半年前に父にガンが見つかったときのこと。
その際に検査入院で病院へ見舞いにいったとき、病室は父と2人でした。
憔悴しきっていた父は、携帯電話の中に書いたものをボクに見せました。
「もしものことがあったらこれをお母さんに見せて欲しい・・・」
そこに書かれていたのは、不器用で頑固者の父が決して母に口にすることができないような言葉。
それは55年の夫婦生活を歩んできた父から母への感謝の言葉が書かれた母への遺言でした。
そのあり方に不器用な父らしさを感じました。
父がみずから母へ、遺言に書かれた気持ちを伝える機会を実現したい。
ボクはそう思い彼女にも相談をしていました。
父は母へ胸に秘めていた思いを伝えたいと思い、ボクに遺言を託したのだろう・・・
命ある限りやり残すことなく人生を謳歌する。
そんな父の胸の内を知っていたボクと彼女は、父の母への気持ちを実現したかった。
それは母だけが知らないサプライズ・・・
55年目にしての結婚式。
母は父が入院する病院で花嫁になりました。
従姉が手作りで用意してくれたブーケ。
従妹から彼女へ手渡たされ、そこにボクと彼女、そして父の手が添えられ母へ贈られた。
今日は2人の結婚式です、55年目の結婚式おめでとう!
驚きを隠しきれない母に父の表情がほころんだ。
父の大切なやり残し・・・
55年ともに歩んだ人生の「ありがとう」を伝えたい。
55年前の当時、挙げることができなかった結婚式で・・・。
そして叶えることができるならば、最後にもう一度、妻の笑顔が見たい・・・
「どや」と言わんばかりに母を見つめる父の愛情あふれる眼差し。
父も笑顔になっていました。
ボクと彼女はそんな父の願いを叶え、一緒に母を笑顔にしたかった。
そしてそれは実現されました。
そんな父のささやかな思いの実現に、こころよく協力してくれた人たちの多大なるサポートによって。
父は幸せをかみしめていました。
四畳半一間の小さなアパートから始まって、
当時も大きな病気をした後で経済的なゆとりはなく・・・
いつの間にか一緒になって、嵐の日も凪の日もあった夫婦生活。
時にはすれ違うことやケンカすることも多々ありました。
嬉しいことや悲しいことも乗り越えて、
楽しいことや辛いこともあった。互いに大きな病気も乗り越えてきて。
一緒に笑って一緒に泣いて・・・
今更ではあるけれども、頑固者の私と一緒によく歩んでくれました。
同じ景色を見て、同じご飯を食べて、ひとつ屋根の下で一緒に年を重ねて・・・
苦労もたくさんかけました。
不器用な私だけど心から「ありがとう」っていえるようになりました。
いつも甘えてばかりで、わがままばかりな私でしたが、あなたと歩むことができました。
同じテレビを見て、同じ季節を味わって、ひとつ屋根の下でよくケンカをして、ずっと仲良しでした。
苦労もまた楽しく、あなたと見る景色は美しく、どんなときでも謳歌することの意味を知りました。
今までも、
そしてこれからも・・・
病院内の小さなチャペルで始まった
ささやかな結婚式。
キリスト教の病院には牧師がいました。
牧師によって2人の式は執り行われ、身近な親族たちと病院スタッフにも見守られました。
しかし・・・
父が目覚めてから一時間が経とうとしていました。
意識を保つのがやっとの状態に看護師が様子をうかがう。
状態によってはすぐさま中断や中止をすることになっていましたが、父は両手を合わせ大丈夫と意思表示をして続行を望みました。
父の状態に合わせた柔軟な計らいで牧師は2人の手の上にそっと手を重ねました。
「神の導きにより夫婦として歩んだことを認め、新たに約束します。
ゆえに私は父と子と精霊の御名においてこの兄弟、姉妹とが夫婦であることをここに宣言します」
2人は新たに結ばれた。
新たに夫婦となった2人へみんなを代表して、彼女から母へ祝福の花束が贈られました。
病棟のナースステーションから2人へ寄せ書きが贈られました。
ここまで至ることができたのは、看護師や医療スタッフたちがボクたちの潜在化にある思いまで組んでくれることによって、力強い支えとなっていたからでした。
ボク自身が辛くなるときがありました。
そんなとき父とそしてボクたち家族に対して看護師たちのホスピタリティにあふれる姿勢は、幾度となく心に響いて大きな励みとなった。
そして彼女の存在はボクたち家族の灯であり希望でした。
病床にある父の話を彼女が聴くと、父は心が和らいで自然と笑顔になっていました。
母に父と出逢った頃の話を聴くために、母が彼女に話していると、弾むように話す母の姿が印象的でした。
ボクたち家族はみんな彼女のことが大好きです。
彼女がふと振り返った時。
それは彼女だけが知らないもう一つのサプライズ。
「ありのままの家族を愛してくれてありがとう」
『ボクは「床の間に大切に飾ります」・・・とは言いませんが』
それはボクたちが母から聞いていた、父が母へ贈ったプロポーズのフレーズだった。
「一緒に笑顔の絶えない家族をつくりましょう。ボクと結婚してください」
ボクの46年目にして初めてのプロポーズ。
彼女は花束を受け取ってくれました。
それは彼女が母へ贈ったものと色違いの花束でした。
彼女は幼い頃に父を亡くしていました。
里山にある、築100年の古民家で生まれ育ち9歳年上の姉とともに、おふくろさんとお婆ちゃん、そして周囲の人々に見守られながら育てられました。
きっとお父さんも天国から見守ってくれたことだろうと思います。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
牧師から贈られた聖書の言葉でした。
両親はこの聖書の言葉がどんなに大変なことだったか・・・
身をもって味わってきたことだろう。
色んなことを乗り越えてきた2人だからこそ贈られた言葉・・・
「何者かである前にひとりの人であれ」
父がよく言っていた言葉でした。
例え親子、夫婦関係であろうと誰でもまずはひとりの人であることには変わりない。
人が互いに人として対等であると敬いあえる関係性が育まれる。
ボク達2人もそんな関係を築いていきたい。
この日はボクたち家族にとって、とても大切な日でした。
ボク達家族と彼女の家族が初めて会った日。
父が55年ともに歩んだ母へ感謝の思いを伝え、そして出逢った頃の約束を叶えた日。
46年間独身だったボクが、人生をともに歩みたいと思った大切な人へプロポーズをした日。
数えきれない困難を乗り越えてきた父が「生きる」ということを身をもって教えてくれた日。
大切な日から1週間後、父の意識はすでになく深い眠りにありました。
母が病室を出ようとしたときでした。
すでに危篤状態にあったはずの父の右手に母は気づいたのは・・・
母は自分に差し出されていた手を握ったとき、父のその時をさとりました。
父の目はゆっくりと開かれわずかに輝きが蘇りました。
まるで時が止まったかのように静寂がおとずれ、言葉はなくとも2人は深く語りあいました。
たくさん、たくさん語り合って・・・
そして
ひとつになりました。
2016年2月8日夕刻。
北海道からの親戚たちや友人、知人、家族が見守る中、父は安らかな表情で召されました。
幼くして父を亡くしていた彼女は、最期の瞬間まで、失われ行く父の瞳のわずかな輝きに寄り添い手を握り続けていました。
2016年1月2日。父が余命宣告を受ける20日前のこと。
正月に訪れていた従妹夫婦と彼女、そして母とボクを前に、父は「癌ばります(頑張ります)」の宣言。
その場の全員がその思いに対して署名しました。
ボクと彼女の間に父は相合傘を書き込んでいました。
父はどんな困難があろうとも命のある限りにおいて、人生でやり残したことを1つでも多くを成して「謳歌」して生きる覚悟を決めていました。
父が書き込んだことがすべて実現されました。
博(父)と節子(母)は1961年に大阪で出逢う。
北海道の函館出身の節子が20歳の時に友人と2人で
大阪に上京する。
上京してすぐに仕事を見つけ就職した。
その就職先で節子を面接したのが博だった。
その時のお互いの第一印象は、博は節子のことを元気な子だなと思った。
節子は博のことを魅力的に感じた。
博は戦後の厳しい時代や環境を生き抜いてきたためか、どこかクールな雰囲気があったという。
節子は家が会社を経営し裕福で7人兄弟の次女であり、天真爛漫で陽気な性格だった。
真逆なような2人であるがすぐに惹かれ合い、出会ってから2年後に入籍。
博34歳、節子22歳。
2人は12歳年の差があった。
しかし当時、博は患っていた結核が治ったばかりで生活に余裕がなく、結婚式はいつの日にかと、その日が来ることを2人の励みとした。
2人の間に待望の子供ができるも度重なる流産・・・
つらい試練を乗り越え、節子28歳のときに息子が産まれ「和也」と名付けた。
博と節子の結婚式から2年後、父の思いは受け継がれ、また新たな物語が始まりました。
ボクたちも大切な日から学んだことを身をもって伝え続けることができるような夫婦でありたい。